ゾーニングの果てにあるもの

 (前略)思想の自由はできるかぎり認めていくけど、その代わり、収集したデータに基づいてゾーニングはきっちりやる。

この点で付け加えておけば、当初この国会で審議されると話題だった青少年有害社会環境対策基本法案や児童ポルノ法改正も同じ流れにあります。ポルノコミックの作家と話をすると、原則的に規制反対なのは言うまでもないとして、でもゾーニングはやむを得ないという意見も出てきている。ゾーニングする代わりに自由にやらせてくれ、というわけです。むろん、延々と宮代真司叩きをやっているような、性道徳の乱れ許しがたしみたいな道徳主義の運動家もいて、彼らはポルノ撲滅を考えているんだと思う。でもぼくは、今後の日本社会でそのような極端な意見が主流になることはなくて、緻密なゾーニングが落としどころになると思う。ポルノが読みたい人だけがポルノを読むことができて、しかし読みたくない人にとっては存在も目に入らない。そうすれば八方丸く収まるし、表現の自由も保たれる。だからそれをみんな歓迎している。でもぼくは、これこそが罠だと思っているんです。

緻密なゾーニングがなぜよくないかと言えば、ぼくは、「郵便的」というか、誤配やアクシデントの可能性がとても重要だと考えているからです。ゾーニングの極限状態というのは、たとえば、何歳ぐらいのある体型の男性あるいは女性のヌードがこれこれのシチュエーションで撮影されている雑誌、と希望するとそれがジャストで手に入る、その代わり他の趣味の人にはそんなポルノの存在すら悟られないというものです。同じことはポルノ以外でも言えると思うけど。その場合、確かに表現の自由は認められているように見えるけれど、はたしてそれは私たちが本来もっていた「自由」なのか、怪しいと思うんですよ。これは連載のネタバレになっちゃうけど、ぼくは、表現の自由というのは、誤配の自由を含んでいると思うんですね。つまり、ぜんぜん興味がない人でも自分の表現に触れてしまう、そういう事故の可能性を確保する自由。でも、いまの社会は、表面的な自由は認めても、誤配の可能性は排除する方向に向かい始めている。
大塚英志+東 浩紀「リアルのゆくえ」pp120-121.

整理すると、二次元エロロリ漫画・アニメに対して(三次元含めると面倒になるので)次のようなスタンスが存在するようです。

僕はゾーニング派なんだけど、レイプレイとかが槍玉に挙がったときに素朴に不思議だったのは「規制派はどうやってそのエロゲを発掘したの?」っていうことだった。規制したいほど嫌いなら、普通は探そうとすら思わないから出会うことはないはずなのに、いったいどこから見つけ出したんだろう。少なくともネットサーフィンしてて偶発的に見つけるなんてのはないはず。
わざわざタコツボから引っ張り出して「こんな鬼畜なモノがあります!! 規制しましょう!!」なんて真似をしたわけ? とするなら僕はそういう行為に対してとても怒りを覚えるわけですよ。この「存在を知らしめる行為」を規制するべきじゃないかと思うほどに。
青少年が手を出すからってのは、それこそ教育とゾーニングの問題じゃないのって思います。存在を知らなければ手は出せないわけで。
その目線自体が女性を傷つけるっていうのもゾーニングの問題。大半の女性はレイプゲームがあってそれを楽しむこと自体を知らなかったはずなんですよ。誰かがこのゲームの存在を声高に批判するまでは。

この考え方がとても危険なのは分かってるつもりだけど、やっぱりそう思ってしまう。
寝た子を起こすなよって言いたくなってしまう。

しかしまぁ、実際の世論を見てみれば、二次元ポルノ撲滅派が多いこと多いこと(たぶん)。撲滅派の声が大きいだけなのかな。
さて、児童ポルノ法改正案は今回は廃案になったけれども、もうたぶん次で三次元の単純所持禁止は成立するでしょう。
そこから趣味嗜好まで制限されていくのかなぁと思うと、こういった議論は所詮言葉遊びなのかなぁとも思うなぁ。